「何かに卓越するには1万時間かかる」
という考えがあることをネット上で知った。
これは単に関わった時間ではなく、
真剣に打ち込んだ時間のことを言うのだろう。
分野にかかわらず
1つのことに1万時間を費やせば、
存在感が明らかに違ってくるそうだ。
存在を出色たらしめているのは
「万全の基盤」。
難しいことだけでなく、
単純なこと、基本的なことを行っても、
人とは異なる光を放つのはとても難しい。
その違いは、
1万時間という時の熟成を待って
はじめて獲得されるものなのである。
呉式太極拳では
「基本拳である慢架」(いわゆる太極拳)と「推手」
の2つが練習の柱となる。
師匠の沈剛は馬岳梁・呉英華両師から
3年で1万回の太極拳修練を求められ、見事に達成した。
挑むにあたって、
「1万回の練習でその後の太極拳の骨格が決まる」
と言われたそうだが、
両先師が求めたのは、
1万回の太極拳ではなく「揺るぎない基礎の体得」なのであろう。
応用はすべてこの上に乗っていく。
基礎が応用の根となり、すべてのことに有形無形に影響する。
単純なことは簡単なことでは決してない。
むしろ単純なことで差つけるのは何よりも難しい至難だ。
たとえば漢字の「一」を楷書で丁寧に書くとしよう。
書の心得のない人と達人では
まるで違う風格の「一」になるはずで、
1万時間とはこの差が自然に生まれる取り組みの時間に他ならない。
作為ではなく時熟によってしか出来上がらない差がここには歴然としてある。
「微差に大差を感じる」のは太極修練の核心だ。
推手においては上級者になればなるほど、
紙一重の小さなレベルアップに、
何年もかかることがあると沈師は話す。
太極拳はミクロの世界にマクロの差を刹那に盛り込む感覚の極致のような武術であるが、
1万回の太極拳ではじめて身につく盤石の基礎があるからこそ、
髪1本、紙1枚ほどのかすかな内面の差に、
大きな外見の差を生み出す何かが現れてくるのである。
「少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず」
を肝に銘じ、
今日も太極拳に無念無想で打ち込もう。
打ち込む、ただひたすら打ち込む。あとは待つしかない。