ある会社に太極拳の指導にうかがっており、
ご好意でピアノリサイタルにお招きいただいた。
奏者は 瀬川裕美子さん、
独自のコンサート演出が印象的な気鋭の若手ピアニストだ。
詳しい曲目は割愛するが、
ベートーヴェン
シューベルト
ブラームス
ウェーベルン
ブーレーズ
近藤譲
古典・ロマン派から現代まで幅広い時代の曲を聴かせていただいた。
現代もの以外はいずれも耳に親しんだ曲ばかりだが、
不思議なことに、
今回今までにない体験が不意に自分のなかに訪れたので、
その個人的な体験を音楽と武術という観点で書いてみたい。
音の陰陽がくっきりと感じられ、
地を這う低音、飛翔する高音のコントラストが見えるように聴こえた。
太極拳の陰陽感覚が音理解と何らかの形でシンクロしたのだろうか。
演奏者の息づかいが身近に感じられた。
自己の息のコントロール、
相手の息づかいの理解、またそれとの同調と破調は武術の最重要要素。
いずれに対しても敏でありたい。
楽器としての身体ということを考えさせられた。
ピアニストはヴォーカリストのように歌うわけではないので、
楽器としての身体とはおかしな表現かもしれない。
しかし武器の修練をした武術家であれば
この言い回し、しっくり感じていただけるのではないだろうか。
武器は体の一部にならなければ扱えない。
指を動かすように武器を自在に操れてはじめて武器は武器術となる。
同様に頭の中の理想の音を鳴らすには
身体は精密な楽器でなければならず、
言い換えれば、体はピアノの一部になってい必要がある。
どこかに力みがあれば、音は硬く、濁る。
腕だけで打鍵すれば音が浅くなり深みが出ない。
理想の音はやはり全身で鳴らすしかない。
太極拳は全ての動きが全身の協調によって行われるが、
「王宗岳(おうそうがく)太極拳論」の次の言葉が
そのことを余すことなく伝えている。
「其根在脚、発於腿、主宰於腰、形於手指。」
太極拳の根は脚にある。
「勁」の出どころは大腿と小腿。
腰がすべての主宰となり、
形は指で決める。
これは頭と体の滑らか、かつリアルタイムの連絡によってなるのであるが、
太極拳の練習とはこの状態に向かって無限の修正を重ねていくことに他ならない。