石庭で有名な龍安寺(世界遺産)。
広縁に面する庭には大海を想わせる白砂が敷かれ、
海に浮かぶ島のように15の石が配置されている。
十五夜の満月から連想されるように、
15がすべてそろうと「完全」を意味するのだが、
「吾唯足知(吾ただ足るを知る)」の禅精神を形にした庭は、
縁側のどの地点から眺めても、15個すべては見られず、どれかが欠けるように設計されている。
(近年すべてが同時に見られる縁側の地点があるという検証がされているようだが、それは設計者の意図にないことであろうと個人的には思う)
修行が進み、どれだけ高い境地に達しても、
修行という立ち位置からはすべてを完全な状態で見られない、
余白は常に残るという禅の感性に、いわく言いがたい親近感を覚える。
龍安寺のような枯山水の庭は「ないもの」を「あるように」感じさせてくれる。
庭を見ると、水のないところに大海を、また狭いところに広がりを感じるから不思議だ。
受けとる側の心境次第でいかようにも変ずる無辺の余白、
これは禅に限らず東洋ではずっと大切にされてきた共通の感覚なのではないだろうか。
煩をいとわず思い当たる例をあげれば、
「亢竜悔いあり」『易経』
「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」『徒然草』
「花は半開を看、酒は微酔に飲む」『菜根譚』
「言ひおほせて何かある」『去来抄』松尾芭蕉の言葉
など。
類例はまだまだあるだろう。
話は少し飛躍するが、
型はどこまで行っても余白や広がりを感じさせてくれるものだと私は思っている。
むしろ稽古が進み、型の理解が深まれば深まるほど余白や広がりは大きくなるものだ。
最後に龍安寺石庭のエピソードをもう一つ。
近年研究が進み、15個の石すべてを同時に見渡せるある一点が存在することがわかってきた。
それはかつて本尊があった場所(過去に焼失・現在の龍安寺は再建されたもの)。
仏様からはすべてが完全な状態で見えていたというわけだ。
同様に型を作った人にはすべてが掌をさすように見えていたのだろう。
今は感じられない型にこめられた余白を、稽古を積み重ねることで感得し、
それをどこまでも広げていくことが型稽古の醍醐味なのかもしれない。
完成はないが、完成に近づく余白は常にどこかにあるように思う。