第45回 「間」の共有


先日喜多流の素人会で「箙(えびら)」の仕舞を舞わせていただいた。

仕舞と太極拳とのあいだを行き来しながら、

「間(ま)の共有」について所感を書かせていただきたい。

そもそも仕舞とは、

数名の謡い手とひとりの舞い手によって最小人数で行われるもの。

能の見せどころ、聴かせどころを切り取ったいわばダイジェスト版で、

囃子(楽器)も入らなければ、ワキも登場しない、とても簡素な形式である。

謡は詞(ことば)・メロディ・リズムによって舞台の雰囲気を定め、

シテ(舞い手)は謡にシンクロしながら主に舞をつとめる。

大切なのは謡と舞の両方によってかもし出される「全体としての調和」である。

個人的な感想であるが、シテは舞台空間だけでなく

謡によって創出される時間空間の両方を同時に舞わなければよき仕舞とならない。

謡の決められたところでシテが足拍子を踏むことがあるが、

これを謡とシンクロさせることがなかなか難しい。

拍子のタイミングを言葉に当てにいくと、

唐突で不自然な拍子となり、間が抜けてしまう。

シテが謡と

「全体の間(メロディ)」

「一瞬の間(リズム)」

これら二つを十全に共有してはじめて

足拍子は舞台全体の流れに調和し、

しかもいいアクセントとして場を引き締めてくれるものとなる。

今回私が言いたいのは、

二つのものが相対したとき

「一瞬の間」だけでなく「全体の間」をいついかなるときも「同期(共有)する」ことが

大切であるということ。

「一瞬の間」の同期だけをねらってしまうと、

何かが欠ける、何かが逃げていってしまうのである。

太極推手においてもこれは同様で、

彼我が対したとき、

相手の一瞬のスキに我が入っていくには、

その一瞬だけに同期するのは至難と言うより他ない。

重要なのは、手が触れ合ったその瞬間から我は常に相手と同期されていること。

相手と同じスピード、同じ方向性で動き、

あらゆる情報が常に同期(共有)されているからこそ、

相手に生じる不自然、不合理、わずかな変化が一瞬の遅れをとることなくリアルタイムに感じられるのではなかろうか。

「捨己従人」

「不丟不頂」

いずれも「相手との間の共有・同期」あってはじめて成立するものであると思う。


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