禅僧の所作は美しい、
かねがねそう思っていた。
禅寺では衣類や食器など、日常使いのものはすべて片づける場所が定まっている。
使ったものを後で片づけるという発想はなく、
使用後はただちに元の場所へもどす。
次に使うとき探すこと、迷うことがなければ、
動きにいっさいの無駄がなくなり美しいからだ。
武術の型も無駄をなくしながら完成度を高めていく点において禅と考えが近い。
削り落としていくのは「カラダ」と「こころ」の無駄。
カラダには膝、骨盤、肩、首、目線など、
無駄を取り除くうえでいくつかの難所があるが、
最難関はなんと言っても「こころ」。
もっとも動きやすいところがやはりもっとも無駄を消しにくい。
こころがどれほど奔放に動いてしまうかと言えば、
眠りたいときにこころがザワついて眠れないことを思い浮かべていただければ十分であろう。
そういったときのこころは、
包丁が包丁自身を切れないように、
こころ自身を静めることができない。
だからこそ、
「カラダ」と「こころ」を分割しないで、
「息」も合わせて三つどもえ状態にして、
すべての要素の無駄を削りながら、同時にすべての要素をととのえることが望ましい。
禅や気功や太極拳が現代人のこころをとらえる理由はこういった全的システムとしての動性と関連性にある。
カラダをととのえる(調身)
息をととのえる(調息)
こころをととのえる(調心)
ことによって内面的にも外見的にも無駄のないととのった動きが成就される。
大切なのはこれら3つが協調して動いていること。
話はもとに戻るが、
禅僧が、使ったものを即座に元の場所へ片づけるのは、
所作の無駄の原因になるこころの無駄(=迷い)をなくすため。
同様に、武術においても動きの無駄はこころの無駄の問題と切り離せない。
その意味で、無駄なものの存在に気づかせてくれて、それを限りなく無に近づけていくシステムとしての型の意義は大きい。
無駄をなくすシステム、
あらゆる要素を全的にしかも同時に動かす一つのシステム、
型の持つこれら二つの側面を大切に今後も型を深めていきたい。