第64回 掌


「掌」の訓読みには、普段よく使う「てのひら」以外に「たなごころ」というまれな読みもある。

「たなごころ」は「手の心」に由来。

日本人にとって手は単なる体の一部位ではなく、

豊かな感性と能力の備わった特別なところであったようだ。

治療のことを「手あて」と呼んだのもそんな心象風景の一端ではなかろうか。

西洋においても事情は似ている。

大哲学者 カント(1724年-1804年)は「手は外に現れた脳髄である」と表現した。

手には五臓六腑、五官(目・耳・舌・鼻・皮膚)に通じるツボや経絡が集中する。

全身と手は連絡し合っている。

脳とのつながりもまた太い。

手と脳の深い関わりを示す「ホムンクルス」という像を見ていただきたい。

これは脳と体の関わりの比率を正確に反映したものであるが、

顔と手のいびつなまでの大きさはどうであろう。

これを目の当たりにすると、「人間は考える葦」とも「感じる手」とも思われる。

そもそも我われは外部情報を五感を通して入力する。

そのうちの四つ(視覚・聴覚・味覚・嗅覚)が集中する顔と、

触覚のうちおそらく最も敏感な手が、

脳とのつながりが極端に濃いのは妥当なところか。

ところで、太極拳に用いる手は、拳よりも掌であることが圧倒的に多い。

拳を用いるとき、「双峯貫耳」のように両手が拳になることはめったになく、

ほとんどは、「搬攔捶」「撇身捶」のごとく一方が拳、もう一方が掌となる。

掌へのこだわりはハンパではない。

武術において「出力」は「入力」同様、極めて大事。

「掌」は一つでその両方を十全にこなす。

「開」のとき顕われ(出力)、「合」のとき隠れる(入力)。

「開合」の展開と収束のあいだにデコボコがなく流れるように滑らかな変化ができるので、

柔のなかに剛、剛のなかに柔を含みやすい。

手の「開合」を考えたとき、

「掌」の感受性、可変性、柔軟性はやはり格別である。


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