お盆休みで岐阜の実家に帰省した。
長年の習い性で体を動かさないと気持ちが落ちつかない。
久しぶりの故郷であっても公園や体育館にいそいそと出かけ太極拳にいそしむこととなる。
屋外、室内、いずれも日常よく練習するところであるが、
所変われば不思議と感覚が微妙に変わる。
とくに足元の感覚がいつもと少し勝手が違う。
全身調和の歯車がどこかズレて、型の終了後はじめの立ち位置にもどれず微妙にズレたり、所要時間もいつもと若干異なってしまう。
その昔、先師 呉英華は相当な期間レンガの上で太極拳の練習をしていたと師父からきいた。
また師父自身も長じて大人の体格になる前の足が小さなうちはレンガの上で太極拳を行っていたと言う。
着地面であるレンガは横に寝かすのではなく、縦に長い状態で立てる。
極端に面積が狭いうえにバランスもはなはだ不安定。
太極拳を行うのに異なる環境どころかレンガは究極の環境、極めつけの次元である。
これはなかなか常人のまねできることではないが、
所を変え、慣れない環境で練習するのは体と気持ちの足元を問うのにいい機会だと思われる。
異なる環境で起こるズレを素早く感知し、非日常的な感覚のズレをいかに速く日常感覚に戻せるか、適応能力と自己修正能力を鍛えるいい練習になる。
表題の「脚下照顧」は禅でよく用いられる言葉で、「看脚下」とも言う。
履物をそろえよという意味で玄関に書いてあることが多いが、無論そのような断片的なことではない。
日常の暮らし全般のことで、行住座臥の一点一画をおろそかにせず、つとめて整えよということであろう。
武術の全般の根はやはり脚下にある。
脚下の安定性、正確性、また臨機応変性を身につけるには慣れ親しんでいる環境だけでなく異なる環境に出向き、非日常の異質をさしはむことも大切であることを帰省時の練習で痛感した。
武術で問われる重要な資質は応変の能力であるが、
その能力を支えるのは平常心であり脚下の安定かつ正確な感覚。
今後もさまざまな環境で磨いていきたい。
今日は内輪の会で「邯鄲」の仕舞を舞う。
太極拳で身につけた平常心を忘れず、襟と足元をただしてのぞみたい。
太極拳と能、ジャンルは異なれど私のなかの感覚ではつながっている。
能は私にとって太極修練の異なる環境なのかもしれない。