先日富士山麓を特集したNHK BSのトレッキング番組を観た。
活火山である富士山のふもとに広がる樹海は意外にも864年の「貞観大噴火」のあとに出来た比較的新しい森。
しかも我われが思い描く豊かな緑は300年ほど前から形成されはじめたもので、噴火後約800年は木も生えない荒涼とした大地であったとのこと。
その名残りを刻印するように、樹海には倒木が多い。いたるところ倒木だらけだ。
原因は土の層が極めて薄いため。
富士山の噴火よって流れ出た溶岩の上に堆積する土はたった5cmほど。
土の層があまりにも薄いため、根は地下に広がっていけず地上に露出してしまう。
地中に根づくことのできない木は成長すると自重を支えられず、力尽き倒れてしまう。
根こそぎ倒れる木のあり様は「成長」と「長寿」に根がいかに深く関わっているかを反語的に物語る。
武術の取り組みはまさにこの反対でありたい。
練習は生きる環境をますます肥沃にし、練習成果である命の根は思うさま肥沃な大地へと広がっていくもの。
武術の練習はすべからくこの流れをサポートするものでありたい。
重要なキーワードは「柔」。
『老子』では「生」と「柔」の関係を次のように言っている。
「人の生くるや柔弱、 其の死するや堅強。 万物草木の生くるや柔脆、 その死するや枯槁」
人も草木も、生きているときは柔らかくしなやかで、命が枯れると固くなる、と老子は洞察する。
木の成長の障害となる溶岩は硬い。
肥沃な土は柔らかくみずみずしい。
いくつになっても物の味わいを敏感に感じる舌は柔らかい。
虫歯などで若い頃からダメージを受けやすい歯は硬い。
これらの対比はほんの一例だが、
老子の言う命の摂理に親和する取り組みは武術の練習の根底に常に流れている。
それゆえに老年に至っても同じ練習を続けられるし、しかもその練習が柔らかさを阻害することがない。