漢字では傍目八目あるいは岡目八目。
碁をわきで見ていると打っている本人より見ている人のほうが、大局が見えやすく八手先まで読むことができる。
転じて、当事者より第三者のほうが客観的情勢判断をしやすいという意味。
碁でなくとも、客観的情勢判断、とりわけ自己分析は難しい。
指は指自身を指すことができないように、自己は自己自身に見えにくい。
分野は何であれ、それができる人が平凡を抜けて非凡に至る。
昔から落語が好きで、円熟の話芸にはえも言われぬ魅力を感じてきた。
型にはまらない天衣無縫・自由奔放の語り口で昭和の大看板にのぼりつめた古今亭志ん生、彼は自分の芸をこう分析する。
「他人の芸を見て、 あいつは下手だなと思ったら、 そいつは自分と同じくらい。 同じくらいだなと思ったら、 かなり上。 うまいなあと感じたら、 とてつもなく先へ行っている。」
舌先の言葉ではなく、心底そう思い芸を磨いた志ん生だからこそ至りえた時代を代表する名人位。
実際晩年に倒れ高座にあがれなかったときも、古典の型の宝庫三遊亭円朝全集を肌身離さず型の学習に余念がなかったという。
名人 志ん生が行なった厳しい自己分析は謙虚の姿勢に近い。
現状を越えていくには、「今の立ち位置を等身大で知る」ことが大切で、「足りないこと」もそのなかから見えてくる。
足りないことを改めるより、足りないことに気づくほうが実は難しかったり、時間がかかったりする。
その意味で徹底的芸の追求からしぼり出された志ん生の言葉にはあらゆる分野に通じる千鈞の重みがある。
年をまたぎ新しい一年が始まろうとするこの時期だからこそ噛みしめたい名言、今の立ち位置とこの一年の変化を謙虚に受け止めるよすがとしたい。