第85回 巧詐は拙誠にしかず


人間関係は巧みにとりつくろうよりも、つたなくとも誠実であるほうがよいという意味で、『韓非子』が出典。

韓非は表看板である厳格な法治主義が有名だが、荀子のもとで修めた儒教、深く通暁した黄老思想(黄帝内経・老子の思想)など、広範な学殖を身につけていた。当時飛ぶ鳥を落とす勢いの秦の始皇帝をして韓非の教えを乞いたいと願ったほどの第一級の有識者で、表題の言葉はその学殖と深い人間洞察が相まってつづられたものと受けとめたい。

思想背景はともかくとして、私のなかでこの言葉は太極拳の体づくりと結びついている。

太極拳の理想は全身の統合と統合された動き。

いとも明快な理であるが、言うは易く行うは難い。

なぜ難しいかと言えば、人の体には得手不得手、器用不器用、柔らかさと硬さの先天的むらがあるから。

首、肩、腕、手の指などは器用に動くが、体幹部分に位置する胸椎・腰椎・骨盤などは不器用で、ほとんど動かなかったり、制御がききにくく勝手な動きをしてしまう。

器用な部位への依存、依存により起こる動き過ぎ・働き過ぎに注意しなければならない。

また不器用なところを不器用のまま放置してもいけない。

とりわけ全身の連絡に重要な役割を果たす骨盤や腰椎は少しずつ動くように、動きがより正確になるように、感覚の敏感度と動きの精度を上げていかなければならない。

「器用と不器用」「得意と不得意」の溝を少しずつ埋め、全体を平準化しながら統合して行くのが太極修練。

これはとても一朝一夕にできることではなく、時間がかかること。

統合に努めればつとめるほど、不器用な部分の動きにくさを思い知り、また同時に器用な部分の過剰から来るズレを悟る。

統合に向かうためのハードルは不器用なところだけでなく器用なところにもひそむ。

「善く游(およ)ぐ者は溺れ、善く騎る者は堕ちる」と言う。好むこと、得意なことがわざわいとなるように、器用であるがゆえにわざわいすることが体にはある。

このようにまとまりにくい体を少しずつまとめるには、太極拳を正確に丁寧に行い、時間をかけて体の内面に分け入っていくしかない。

統合への近道はないが、それに通じる一本道はある。

目標に向かって一歩一歩進んでいくための心構え、また体への取り組みは巧詐でなく拙誠に限るのでなないだろうか。


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