先日国立能楽堂で能「鉢木 はちのき」を観た。
シテは友枝昭世さん。
ワキ・囃子にも豪華キャストがそろう贅沢な舞台。
幸運にも大鼓は亀井忠雄さん。
音はもちろん姿までも無条件に美しい鼓の名人。
動きに微塵の無駄もない。
無駄な力みがないから伝達を妨げる抵抗がない。
体の内側で発信されたエネルギーは音に乗って遠くまで伝達される。
打ち姿をつぶさに観察すると、体幹と各関節(特に肩・ひじ)にブレや力みがなく、手の指先まで全身が自然に連絡し合っている。
こういう状態だからこそ、音はどこまでもクリア。ごく小さな音ですら途中で立ち消えることなく澄んだままクリアに、遠くまで届く。ボリュームの大小ではなく密度の濃淡が打たれていることに感銘を受けた。
手の密度、体の密度を濃くしていくことについては、太極拳も鼓と同じ。
体幹と四肢のズレ・ブレをなくす。
筋肉・関節を固めず柔らかさを保つ。
一つの動きに向かって全身が協調する。
これらが身につけばわずかな動き、小さなポイントに高い密度の感覚を埋めこむことができる。
太極拳、推手では水が布に自然に染みこむような、さりげなくも密度の高い手をめざす。
これは手単独の問題ではなく、全身の柔らかさと協調性が密度という質になって手に現れる全体の問題。
太極拳では一瞬一瞬、一挙手一投足、あらゆる瞬間において常に全体の状態が問われている。
鉢木は能らしくない能で、シテが面を用いず素顔で役を演じたり、水戸黄門のように筋が分かりやすくストーリーを追いやすい。
司馬遼太郎も最も好んだという人気曲。
あらすじを添付するので、ご興味のある方はご一読を。
前半は大雪の悪天候を嫌い一夜の宿を乞うワキの旅僧(身分を伏せた時の最高権力者 北条時頼)と家の主シテの邂逅。
シテ困窮の現状、それにもかかわらず武士としてブレない志気と気骨が簡潔に描かれ、前半のクライマックス・薪の段(たきぎのだん)へ。
貧しさのため愛蔵の木々をことごとく手放すも、最後まで執着し手元に残した秘蔵の梅・桜・松。
それらを決然と切り落とし火にくべて暖で客人をもてなす。
格調高い詞と謡でキビキビと運ばれる能独壇場の名シーン。
その心意気にワキは心動かされ、宿泊することなく急ぎ鎌倉へ戻っていく。
後半はいざ鎌倉の場面。関八州のツワモノが北条時頼の前に勢ぞろいする。
右も左も見事な甲冑を身にまとうきらびやかな武士の面々(シテとワキ・ワキツレ以外、実際の役者は舞台上にない。そのシーンの豪華な映像は言葉から喚起される観覧者の想像に委ねられる)。
そのおごそかな雰囲気のなか、千切れた具足に錆びたなぎなたを持つシテの姿は全くもってみすぼらしい。
いたたまれない空気であっても臆することなく相変わらぬ武士としての気骨・気概を示すシテに、時頼は本領の安堵を約し、加えて梅・桜・松にちなむ地名の領地を加増し、鉢木の格別な恩義に報いる。
今をときめく武士の面々、その面前でもののふとしてこの上ないほまれにあずかったシテは意気揚々と領地への帰途につきハッピーエンド。
明解でわかりやすい演劇構造ではあるが、シテの気骨とワキの風格がピリッとした緊張感を持って交錯すると、能でしか表現しえない魅力が舞台上にあふれ出る。
機会があればご観覧をオススメしたい名曲である。