前稿では「風姿花伝」の陰陽観に触れた。
はるか600年ほど前のバランス感覚である。
今回はその感覚が現代の能舞台で
どのように継承され、活かされているかに焦点を合わせ、
後半で太極拳に回帰したい。
【能のなかの陰陽】
能に用いられる代表的な楽器に
大鼓(おおつづみ)と小鼓(こつづみ)がある。
大鼓は「カーン」という乾いた陽の音、
小鼓は「ポン」という湿った陰の音を発し、
両者が一対になって舞台に響く。
面(おもて)を少し上向けることを「テラス」といい、
陽の感情を、
うつ向くことを「クモラス」といい、
陰の感情を表現する。
表情のないことで有名な能面であるが、
「テラス」「クモラス」の小さな陰陽変化からは、
大きな感情の起伏が見るものに豊かに伝わって来る。
【演劇構造】複式夢幻能
能では前場・後場の二部構成になっていることが多く、
前場では、シテが仮の姿で現れ、
老人・女性・男性など土地の者として
通りがかりの人(ワキ)と問答を交わす。
シテは土地の歴史・縁起を語ったあと、
今は仮の姿で、
本当の自分が何ものであるかをほのめかし、
幕の向こうへ姿を消す。
前場終了。
後場では、真の姿で現れ、舞台は次第に最高潮へ向かう。
仮から真の姿、陰から陽、隠から顕への見事な転身は
能最大の魅力の一つである。
終演後盛大な拍手がほとんど行われないのは、
舞台の余韻と陰である静寂のおとずれを邪魔しないためであると思われる。
舞台上に誰もいなくなるまでが上演中という能独特の考えは、
クライマックスで陽が極まったあと、
漸々、粛々とおとずれる陰の繊細な味わいを堪能するためであろう。
この静かで自然な陰陽転換こそ太極拳に近い感覚である。
【太極拳の陰陽】
太極拳の型は、
外的・内的陰陽と五行の調和を大きな目的としている。
太極拳の陰陽変化はどのようであるべきか?
自然な変化であるのが望ましい。
具体的には、
夜から朝へ、冬から春へ自然に変化してゆくのがよい。
自然な変化はどこから始まっているのか、
今回はこの点に注目したく長い文を書いてきた。
朝の始まりは暁でなく、春の始まりは立春ではない。
変化はものごとが極まった時にはじまると考えたい。
朝は陰が極まった午前0時直後、
春は同様に冬至直後に始まると考えるのが自然である。
太極拳の修練では陰中の陽、また陽中の陰の発端が重要であり、
それらを滞りなく自然に行うことこそ太極拳の太極拳たる動きである。
力み、滞り、偏りは陰陽がそれぞれ極まる時に起こりやすく、
自然な動きのさまたげとなりやすいので、気をつけよう。
「極まりと発端を自然に」
能と太極拳に共通する大事な感覚のように思われる。