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第34回 初心


「初心忘るべからず」

能の大成者 世阿弥が『花鏡(かきょう)』という自著に記した言葉で、

現代人の心にもまっすぐに響き、生きた言葉として今なお様々な場面で使われている。

「道を志した時の初々しい気持ちを忘れずに今をがんばる」という一般的な意味合いだけでなく、

この言葉には実にじつに深い奥行きがある。

1週間前の拝師の余韻まだやめらぬ今、

世阿弥の考えた「初心」の全体像に迫ってみたい。

「初心」には3つの層(相)があると世阿弥は考える。

「是非の初心」

「時々の初心」

「老後の初心」

【是非の初心】

「是非」=「若いとき」。

若いときの心、また身につけた技術を忘れずに、

いつでも取り出せるように磨いておけば、老後に様々な助けとなる。

これが初心の第1段階。

「前々の非を知るを後々の是とす」と言っているように、

初心を忘れるのは、大成を捨てることに他ならず、

初心を忘れないことで、後心が正しいものとなる。

後の文脈とも関連することであるが、世阿弥のめざす最高の大成は老後にある。

【時々の初心】

是非の時代直後から老後前の年の盛りまで。

この時期に気力・体力ともに充実し、様々な技術を身につけ、場数をこなす。

それらのすべてを身にも心にも保存し、

是非の初心と時々の初心が相まったとき、

能の芸域が十方にわたるほどの広がりと厚みを持つ。

【老後の初心】

是非・時々の初心時代を通過し、それまでに修練してきたものが自身に定着している状態で、

老後ならではのものに挑むこころ、老後の初心である。

体力もほとんどなく、足づかいもほとんどきかないこの時期の能は、

「せぬならでは手だてなし」ということになる。

若いころのような華麗・自在な動きは望むべくもなく、

ほとんど動きのない能をつとめなければならない。

それでいて動きのない動きに何十年と培ってきた花、まことの花を咲かせなければならない。

これこそが世阿弥が望んだ最高位の初心なのだ。

結びに彼はこう締めくくる。

「初心を忘れずして、初心を重代すべし」

3つの初心を忘れずに、子々孫々、代々伝承していかなければならない。

それぞれの初心を串のように貫くものは、

「能は若年より老後まで、習ひ通るべし」という彼自身の言葉である。

すべての時代の習いが自分のなかではっきりと貫通していなければ、老後の初心には至れない。

600年ほど前、能の習いを通じて世阿弥が達した境地だが、

およそ何ごとにも通じる普遍の道理ではなかろうか。


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