第76回 離見の見


前回「内観力」について以下の要旨で書いた。

・内の感覚と外の動きのあいだにはズレが生じやすい

・そのズレに自分ではなかなか気づきにくい

・ズレを体感・修正するには、内の感覚と外の動きを一致させる内観力の養いが重要

実は600年ほど前、能の大成者 世阿弥が『花鏡(かきょう)』という自著のなかで同じような内容をすさまじい完成度で語っている。

天才 世阿弥の長年にわたる体験が凝縮された美しい言葉づかい、心身に対する奥深い洞察の精華を、所感を交えて簡単にご紹介したい。

− 目前心後 −

舞いのとき目は前を見すえるが、心は後ろに置く。

視界にとらわれると小手先だけのせせこましい動きになってしまう。

舞いをおおらかに、大柄にさせるのは、知的判断に結びつく視覚情報よりも、全体を全体像として感じている後ろに置かれた心の役割が大切。

− 我見と離見 −

自分の視界で見ているものは「我見」。

それに対し客席より見えているわが姿は「離見」。

または「見所同心(けんしょどうしん)の見」とも。

舞い手は「離見の見」を体得することで、舞いの最中も見ている人と全く同じ視点を内観する。

この内観力が身つけば舞っている自分の後ろ姿が見えるだけでなく、観客が見ている自分の舞い姿を前後左右全方位から舞いながらにして可視できるようになる。

− 五体相応 −

後ろ姿が見えていない舞いは俗っぽく、幽玄には遠い。

幽玄が立ち上がるには、内外・前後・左右・上下・中央の全方位に敏感に開かれた離見の見の視座が稼働し、五体が相応しなければならないと世阿弥は言う。

視界の影響下で思惟する自我をも離れ、全方位に隙なく、しかも過不足のない配慮が全体に行き届いてはじめて幽玄が風姿となって立ち現れるのであろう。

武家文化のなかで徹底的に鍛えられた能の動きと身体哲学には、武術と同じく無駄を極限までそぎ落とし体のなかに潜在する無限の能力を顕現させる叡智が息づいている。

能を語る世阿弥の言葉からは武と舞が直結していることをまさしく体感できる。


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