「太極は無極に生ず。陰陽の母なり。動けばすなわち分かれ、静まればすなわち合する。」(筆者訳)
『太極拳論』の有名な冒頭部分で、「太極」と「無極」についての本質を述べている。
これについて呉氏の考えを簡単にご紹介したい。
動いたり、合するのは「陰陽」のこと。
無極は陰陽未分の静的な状態。
太極は陰陽が分かれた動的状態。
陰陽が相分かれ動きはじめた瞬間から無極から太極が現れる。
太極の本質は動きにあることをまずおさえよう。
型の動作で具体的に見てみると、
両手・両足を含め全身が左右対称のときは「無極」。
「太極起勢」あるいは「開太極」により、手・足の左右対称が破れ、非対称になった瞬間から「太極」に入る。
「終勢」または「合太極」(左右対称の静的状態にもどる)まで陰陽は常に消長しながら綿々不断と動きつづける。
単に動的状態にあればいいというわけではなく、陰は陽に、陽は陰にそれぞれの根を持ち、お互い離れることなく相済の関係になければならない。
前の動作の終わりが次の動作のはじまりという言いかたがあるが、
太極拳の動きをより正確に表現すれば、次の動作は前の動作のなかから生まれ出るということになる。
このように動きが「止まらない」「連続する」「緩急・強弱をつけない(発勁のない慢架に限る)」ことが太極拳のキモであるのだが、分かってはいても切断、分断はなぜか起こってしまう。
どのようなときにそうなりやすいかと言えば、
・大きな展開が極まったとき
・馬歩のような安定度の高い姿勢のとき
・脚への負荷が厳しく力みやすいとき
・身体能力の高さを表現しやすいとき
4つ目についての典型的な例は「分脚」などの蹴り。
バランスや柔軟性の能力が高まると、そのつもりはなくても動きに無意識の誇張が入り「大きく」「美しく」見せるような動きに陥りやすい。
いわゆる決めによる一瞬の静止であるが、太極拳には決めどころも歌舞伎のような見栄もない。
弱さを強さでつつみあたかも強いように見せてしまうところにもう一段階深い人間としての弱さがひそんでいることを型に教えられる。
一般的な武術の型の動きに反して、緩急・強弱の変化、また決めどころがなく、常に均一な動きをするところに太極拳ならではの特徴と難しさがある。
これらのことは無極と対比したときの太極の性質からも読み解ける。